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 燃えるゴミならまだ良いが、燃えないゴミならチョットたちが悪い。数あるゴミを、それなりに分別。たちの悪いゴミや、情けないゴミは徹底的に批判する予定。反論は掲示板にて受付ます。


燃えるゴミ (書籍 3冊)
反感装置(1987)  稲川方人  思潮社
 題名が「反感装置」ということなので、ひょっとすると著者の策略にはまっているのかも知れないが、久々にかなりの駄本であった。著者は詩人らしいので、表現力豊かな言葉がまるで機関銃のようにページを駆け抜けるのだが、一つ一つ丁寧に読んでゆくと、それは、薄っぺらな主張を補強する為の、単なる言葉の装飾にしか過ぎないのだ。ゴダールも、イーストウッドも相米慎二も、山口百恵も、マキノ雅弘の後頭部も(と表現するのが不自然ならば僕は)、そこにはいない。あるのは、映画作家の題名(作品)のみである。問われるべきは、作家の資質や映画状況などではなく、鑑賞者(ココでは著者)の感受性である。多分、観客は、作家の作品を通して、自分自身と対話しているのではないだろうか。そのような状況の中では、あくまでも自分自身の表層と深層をめぐる旅なのである(作家のちょっとした表現を、重箱の隅をつつくようにして作家を語ろうとする事が如何に虚しい事であろうか!)。無数の映画作家(フィルム)達。アテネフランセやフィルムセンターでは絶対上映されない作品、映画館を走り回る子供達、観衆のざわめき。それもまた、映画体験である。むしろ、そういう中にこそ、まだ見ぬ、(反感装置としての)映画評論、映画エッセイが数多くあるはずである。
 著者の映画以外(野球、写真、音楽、世相など)の文章も、概ね同じ感想であった。それにしても、初出は雑誌と思われるが、単行本に収録するにあたり、多少の状況説明など、必要な場合も数多く見受けられたが(野球の章など)、その辺のフォローが殆ど無いのは、とても不親切ではないだろうか?。(2004.7.13)
日本映画が存在する(2000)  阿部嘉昭   青土社
 厚さ約2.6センチメートル。486ページのボリュームタップリの評論集。難しい。私の頭では理解不能の言葉のオンパレードだ。私にとっての90年代日本映画の最悪の部分(青山、阪本、瀬々監督等)が数多く取り上げられているので、何かしらの理解を得られるかも、と思い読んで見たのだが、その期待は確実に裏切られた。果たして、著者はこれらの映画の何処に賛同しているのか。あるいはしていないのか?。回りくどい文章と、湯水のように提出される比較対照作品。それは、むしろ賛同というより、著者の無意味な併走ではないか?。著者は映画作品により派生した、著者自身のより豊かな(?)イメージ(これは完全に後出しジャンケンだ!)を誌面にたたきつける。それは、ある面読者にとっても、映画作家にとっても迷惑なマスター・ベーションではないのか?。私にとって最悪だった90年代の作家のマスターベーション的映像作品もしかり。読者は、映画観客は、いつもここで取り残されてしまうのだ。この評論家(著者)と映画作家のいつまでたってもかみ合わないマスターベーションにはもう、いい加減うんざりだ。業界人がお互いじゃれあっているような現在の状況では、一部の熱狂的映画アホを除いて、映画も評論も一般的には益々相手にされない状況になって行くだろう。486ページ、約1週間。実に無駄な時間だった。(2002。12.9)
●日本喜劇映画史(1995)  NTT出版
 
先ず、著者の喜劇作品の範囲が漠然としているのが、大問題だ。そしてそこから抜け落ちた喜劇が多すぎる。この著者は、小林信彦をどのように読んだのだろうか?。最初から最後まで、一見バランスがとれているようで、中味はスカスカである。喜劇映画の陽の当たらない部分をちゃんと理解せずして、きれいな所だけで映画史を作ってしまった所がこの本の問題なのだ(例えば、山城新伍。彼は喜劇年表の中にしか出てこない。山本晋也監督の一連のピンク映画もバッサリ切られている)。多少の意欲は感じられたが、獲る物は何も無かった。(2001.09.11)
燃えないゴミ (書籍 1冊)
●日活ロマン帝国の逆襲(1997)  成星出版  (ゴミ本 No.1)
 先ずは、データがメチャクチャである。過去の文献をちゃんと調べればこんなことにはならなかったのだろうが、とにかく非道い。リストと記事の食い違いがあきれるほどある。女優のイラストも全く似ていない。こんないい加減な作りの本に出逢ったのは余程運が悪いのかも知れない。今の所、我が生涯最悪のゴミ本だ。  


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